会津秋祭り

会津秋祭り

[Autumn Festival of Aizu]

早乙女貢氏の「会津士魂」を読み進むうち、故郷という訳ではないのに望郷の念にも似た気持ちで無性に会津へ行きたくなった。 そんなとき会津の秋祭りが毎年行われていることを知り、9月23日、歴代藩公行列の見物を兼ねて日帰りで会津を訪ねた。 今回は旧会津藩家老屋敷跡や早乙女貢氏が毎年参加しているという歴代藩公行列の写真撮影が中心になるのでフットワーク良く行動できるよう一人で行った。 会津に行くのは二十数年ぶり、二度目である。 前回は旅行先の一つというだけであったが、今回は「会津士魂」の思い入れが大きいためか、市内に入っただけで大きな感動に包まれるのを感じた。

当日は朝6時半過ぎに自宅を出発。途中は渋滞もなく10時過ぎには現地入りすることができた。 当地の天気予報は雨で、しかも到着直前の高速道では土砂降りにもあったので悪天候を覚悟していたのであるが、到着してみるとすでに雨は上がり、昼過ぎには急速に晴れ間が広がる好天となった。 さっそく三の丸の県立博物館に車を停め、藩公行列を見に甲賀町通りの北出丸に向かうと、ちょうどが出発したばかりのところだった。 すでに沿道には人垣ができていてたいへんな混雑であったが、参加者の身に着けている鎧や衣装が忠実に再現されていることはよくわかる。 地元中学生による「白虎隊」もじんとくるものがあり感動的だ。 まだあどけなさの残る中学生が刀を差し鉄砲を担ぐ姿は、勇ましいながらも飯盛山での集団自刃と思い合わせると痛々しい。 また地元女子高校生が扮した「中野竹子」、日野市から参加した「新撰組」なども印象に残った人々である。

お目当ての「西郷頼母」役の早乙女貢氏が現れたとき、馬上の氏に向かって文庫本の「会津士魂」を掲げ「これ、読んでますよ!」と声をお掛けしたら、 笑顔で「あっ、どうも」と丁重に答えてくれたことがとてもうれしかった。 全体に硬い表情の行列参加者の中にあって、笑顔を絶やすことがなかった氏の姿はとても印象深く、「会津士魂」を通して感じていた氏の人柄をあらためて実感できた。 青天のもと、行列参加者が本丸前の広場に集合して盛大に行われた帰陣式もすばらしいもので、終わってもすぐにはその場を立ち去り難く、しばらく芝の上に立って会津藩と会津士魂の健在を確信していた。

この日は文庫本「会津士魂」の地図を片手に足が棒になるくらい市内を歩き回って、家老屋敷跡や藩校跡などを見て廻り十分に会津を堪能することができた。 それでも博物館や他の郭門跡、それに飯盛山や小田山から見る鶴が城等々、まだまだ見たいところがたくさん残ってしまった。 すでに時刻は6時近く、薄暗くなってきたので、うしろ髪を引かれながら会津を後にした。 それらは次の楽しみに残しておこう。 (2002.9.29)



鶴が城(若松城)

天守閣
本丸前の広場から見上げる。

北出丸
北出丸東側の桜の馬場より。

二の丸
二の丸前の一角は私有地らしくガソリンスタンドがあるが土地を買い取るなどもう少し工夫が欲しいところ。

三の丸
到着直後はこの通り厚い雲に覆われていた。車は博物館の妻側の前に停める(左フェンダー先端がわずかに見える)。戊辰戦争のときは負傷した人々を収容する場となる。現在は県立博物館などの施設が並ぶ。

秋月悌次郎詩碑
秋月悌次郎(1824〜1900)は幕末期、全国的に知られていた知識人で、会津藩公用方(外交官)を務める。

本丸茶屋
桜の馬場跡にある本丸茶屋。昼はここで休憩。ここの「ざるそば」は一級品だった。

甲賀町通り(こうかまちとおり)

甲賀町通り
甲賀町通りより城を望む。この先の城に近いところで落城後の開城式が行われた。 (→甲賀町通り道標

甲賀町口郭門跡
石垣は道を挟んで東西両側にあったが現存するのはこの西側の石垣のみ。(→解説

甲賀町口郭門の碑
戊辰戦争で甲賀町口門は攻め込む西軍と激しい戦いが行われたところ。

藩校日新館

日新館跡
日新館は城の西側に隣接する広大な場所に1803年建てられた。1868年戊辰戦争ですべて消失する。

天文台跡
天文台は日新館西北端の桂林寺町通りに面した場所に現存する。 (→桂林寺町通り道標

天文台跡の碑
藩士の子どもたちはここで天体観測などをしたのであろうか。(→解説

天守閣を望む
城からこの天文台までが日新館の敷地。目前に広がる街並みは校舎があった場所。

会津藩家老屋敷跡

内藤介右衛門邸跡
内藤介右衛門邸跡は城より北に延びる甲賀町通りの起点西側の角にある。

西郷頼母邸跡
西郷頼母邸跡は甲賀町通りの起点東側の角にある。左の木立の中に戊辰殉節碑が建っている。

西郷頼母戊辰殉節碑
甲賀町通りに面して建つ。(→解説

西郷頼母(早乙女貢氏)
歴代藩公行列での西郷頼母(1830〜1903)。扮するは早乙女貢氏。

西郷頼母(早乙女貢氏)
他の参加者が全般的に硬い表情であったのに対し、氏はいつも笑顔だったことが印象に残る。私がとった三枚の写真はすべて笑顔で写っている。

西郷頼母(早乙女貢氏)
文庫本の「会津士魂」を掲げて「これ、読んでますよ!」と声をお掛けしたら、笑顔で「あっ、どうも」と丁重に答えてくれた。

萱野権兵衛邸跡
萱野権兵衛邸は二の丸前、西郷頼母邸と背中合わせの場所にあった。

萱野権兵衛
歴代藩公行列での萱野権兵衛(1830〜1869)。

田中土佐邸跡
二の丸側から見た田中土佐邸跡。現在は税務署がある。

田中土佐
歴代藩公行列での田中土佐(1820-1868)。

奥正面が山川大蔵邸跡
この道の左側(西側)に萱野権兵衛邸、右側(東側)に田中土佐邸があった。奥正面には山川大蔵邸があった。

山川大蔵(おおくら)邸跡
山川大蔵(1845〜1898)邸跡は萱野権兵衛邸北側の道を挟んだ向かいにある。 弟に山川健次郎(1854-1931)、妹に山川捨松(1860-1919、北海道開拓使女子留学生写真)がいる。

佐川官兵衛邸跡
佐川官兵衛邸は山川大蔵邸の東側の道を挟んで向側にあった。

佐川官兵衛
歴代藩公行列での佐川官兵衛(1831〜1877)。

神保内蔵助邸跡
神保内蔵助邸跡は三の丸の東側にある。現在は市立図書館。

神保内蔵助
歴代藩公行列での神保内蔵助(1816-?)。

天寧寺町口方面
神保内蔵助邸前より天寧寺町口方面を望む。

会津秋祭り 歴代藩公行列

蒲生氏郷公
歴代藩公行列での蒲生氏郷(1556〜1595)。

松平容保公
歴代藩公行列での会津松平家9代松平容保(1835〜1893)。

松平容保公
扮するのは容保の孫にあたる会津松平家13代松平保定氏(1926-)の世子、保久氏(1954-)。

白虎隊
白虎隊に扮する地元若松第四中学校生。

白虎隊
中学生が刀を差し鉄砲を担ぐ姿は、勇ましいながらも飯盛山での集団自刃などを思うと痛々しい。

女白虎隊


河合継之助
長岡藩家老(1827〜1868)。前に引かれる武器は当時最新鋭だった有名なガットリング機関砲。

新撰組
東京・日野市から参加した新撰組。土方歳三(1835〜1869)に扮するは日野市助役。

新撰組


蝦夷新撰組


榎本武揚(左)と大鳥圭介(右)
左が榎本武揚(1836-1908)、右が大鳥圭介(1832-1911)

娘子隊
地元仁愛高等学校生による娘子隊(じょうしたい)。

薙刀隊
会津なぎなたスポ−ツ少年団による薙刀隊。

中野竹子
娘子隊隊長(1850〜1868)。江戸詰め藩士中野平内の長女で当時評判の美人。

中野竹子
「武士(もののふ)の猛(たけ)き心にくらぶれば数にも入(い)らぬ我身ながらも」と詠んで男装して西軍と戦うも、被弾して致命傷を負う。 介錯したのは当時16歳だった妹の優子

中野竹子
生徒会副会長を勤める地元の女子高校生が扮する。馬から降りて思わず笑顔に。

行列帰城そして帰陣式

姫・奥方


姫・奥方


姫・奥方


姫・奥方


腰元たち


腰元たち


腰元たち


中野竹子


娘子隊


娘子隊
先頭には中野竹子が。

薙刀隊


薙刀隊


帰陣式
本丸前の広場で行われた帰陣式。

女白虎隊演舞
地元高校生による女白虎隊演舞。

和太鼓
会津鶴が城太鼓若駒会による和太鼓。

集結した参加者
本丸前の広場に集結した参加者。

※このたびの会行に際しては会津藩主・松平容保公と近習・浅羽忠之助に関するサイト「梅薫夜風」のおりえさんより当日の交通状況や駐車場情報をいただき大変助かりました。ありがとうございました。