これまで明治維新は参勤交代などによる諸大名の経済的疲弊などから徳川幕府が自然崩壊する形で大政奉還に至り、訪れたものと単純に思っていたが、 早乙女貢氏の「会津士魂」を読み、実は「徳川政権を外様大名の雄藩が同盟して転覆し、これにとって代わった」(早乙女貢氏)ものであることを知った。 これについては一方的な見方という指摘もあるが、実は現在多くの人が信じ込まされている明治維新観もやはり一方的な見方なのである。 「会津士魂」を読むと、明治維新は長州と薩摩が徳川家に対する関が原以来の恨みから、幕府の息の根を止めて政権を奪うことに執着して強引にもたらしたものである、とする見方が無理なく理解できる。
薩長は幕府が大政奉還した時点で協力して新体制を築けば良かったものを、長年の恨みからそのままで済ませなかったところに第二次世界大戦に至るまでの日本の不幸がある。 薩長は大政奉還を素直に受け入れたのでは徳川幕府と協力せざるを得なくなり、政権奪取の野望が果たせなくなってしまうため、どうしても幕府を倒した形にしたかったのである。 そのため、西郷隆盛や大久保利通などは江戸市中で手下に乱暴狼藉を働かせて旗本らを挑発し、幕府勢の反発を誘引するという謀略を実行し成功させた。 これによって幕府・佐幕勢力を逆賊として武力で倒す口実ができたのである。 鎖国政策を取ったとは言え、300年もの間平和を維持した徳川幕府を倒さなければならない理由とは何だったのか。 日本の安全を確保するために開国を決断し、公武合体を目指した幕府にどのような落ち度があったというのだろうか。 結局、西洋から武器を買い集め、政権奪取後も西洋にかぶれた薩長は、尊王も攘夷も討幕の口実にしていただけなのである。
会津藩主松平容保は徳川家にどこまでも忠義を尽くすという家訓にしたがって、新設された京都守護職を受諾した。 そして公武合体による政権運営を目指す朝廷と幕府のために、遠い会津から1000人を超える藩士と共に上洛したのである。 会津藩主従はどの藩よりも純粋に勤皇佐幕の姿勢を貫き、京都における長州藩による傍若無人な騒乱を静めるために身を粉にして尽くした。 そのため孝明天皇と徳川慶喜からは絶大な信頼を受け、最も頼りにされる存在となったことは当然であった。 にもかかわらず、最終的には薩長から朝敵・逆賊の汚名を着せられ、日本史上まれにみる残虐さで会津城下を蹂躙されてしまったのである。 朝敵となるようなことは何一つしていないにもかかわらずである。
戊辰戦争の勝者となった薩長は、会津城下において戦死者の埋葬を許可せず半年も野ざらしにしたり、自刃した白虎隊士の遺体を近くの住民が見かねて埋葬したものをわざわざ掘り起こさせたりと、歴史的にも稀にみる非人道的なことをしたのである。 そればかりか藩士とその家族1万7千人余りを藩ごと下北半島へ流罪した事実は、会津人ならずとも無念でならない。 この事実を無視して明治維新を論じることはできないことを知った。 本来ならば京都御所に大砲を打ち込んだ長州こそ朝敵なのだが、勝てば官軍とはこういうことだったのである。 京都での薩長の非道を知る会津藩の口を封じるために、藩そのものの消滅を狙った戊辰戦争は起こさなくても良かった戦争だったと思わざるを得ない。 戦国時代における勝者と敗者の関係とはまるで違うのである。
薩長土肥により作られた明治新政府は、廃藩置県によって旧藩主(約260藩あった)の権力を奪うとともに、その抑えとして日本陸軍を創設したが、日本陸軍の誕生はその後の日本が軍国主義へと進んでいくことを決定付けた。 そして、長州閥による日本支配は昭和40年代まで続くこととなったのである。
過ぎてしまったこととは言え、取り返しのつかないことにはため息が出るばかりである。 百数十年も戊辰戦争にこだわるのは頑迷であるとか、戦争とはこういうものだという意見もよく耳にするが、私はそうは思わない。 しつこいという点では300年恨み続けた長州の方がはるかに上だし、恭順(降参)している相手を完膚なきまで徹底的に痛めつけた戦争など滅多にないのである。 目を開かせていただいた早乙女貢氏のライフワークを私は陰ながら応援したいと思う。(2002.10.19)
明治の終わ頃、会津人の努力により、会津藩を朝敵とする歴史観を打破するための証拠となる書物が相次いで刊行された。
『七年史』(元会津藩家老神保内蔵家助の次男 北原雅長著・明治37年4月刊)と
『京都守護職始末』(元会津藩家老山川大蔵(浩)、山川健次郎共著・明治44年11月刊)である。
この二書には孝明天皇から厚い信頼を得ていた会津藩主松平容保に下賜された御宸翰(ごしんかん=天皇直筆の文書)と御製(ぎょせい=天皇の作った詩歌)が紹介されていたために、
容保が孝明天皇の御親任の下忠誠を尽くした史実は天下に明らかとなり、会津藩=賊軍史観は決定的に否定された。
一方、明治以来、文部省編纂の国定教科書『尋常小学校国史』には「会津藩主松平容保は、奥羽の諸藩と申し合はせ、若松城にたてこもって官軍にてむかった。 官軍は諸道から進んでほとんど一個月も城を囲んだので、城中のものはたう々々力が尽きて降参した」と記述されてきた。 会津の人々はこのような文章を長い間朗読させられてきたのであるから残酷な話である。 だが現白虎隊記念館理事長で弁護士の早川喜代次氏が教科書改訂に向けて運動を開始した結果、文部省はついに誤りを認めて昭和16年、全面改訂したのである。 (参考文献:中村彰彦著「松平容保は朝敵にあらず」中公文庫)(2003.2.17)
タイトル・著者・出版社 | コメント | ||||
新選組三部作 |
新選組始末記 |
新撰組隊士が壬生の八木邸にいたころ当時まだ子供だった八木為三郎老人から聞き取った話や永倉新八の遺談など、史実と実録を中心とした資料集としての重みもある。 新撰組の真実が描かれる。 |
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新選組物語 | |||||
新選組遺聞 | |||||
新選組血風録 |
短編集仕立てで新撰組の活躍を描く。 沖田総司を初めとする隊士の人間模様も描かれる。 |
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燃えよ剣 上・下 |
日野の石田村で家業を手伝っていた頃から函館で戦死するまで、新撰組副長土方歳三の生涯を克明に描く長編。 土方歳三の魅力をたっぷり味わえる。 |
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幕末新選組 |
新撰組副長助勤永倉新八の77年にわたる生涯を描く。 永倉新八は子供の頃から剣術の腕を発揮し、近藤勇や土方歳三とともに新撰組を結成して京都で活躍する。 幸運にも永倉新八は維新を生き延び、父が仕えた松前藩江戸屋敷の便宜で北海道に渡り結婚する。 その後一時東京に戻ったりしたが、大正4年(1916)に小樽で生涯を閉じる。 そのとき私の父は15歳。私が生まれる32年前だった。 |
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回天の門 |
山形県田川郡清川村出身の清川八郎の生涯を描く長編。 清川八郎については軽く扱われることが多い中で、文武両道の大変な努力家であったことがわかる。 これを読めば清川八郎に対する見方が変わる。 |
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壬生義士伝 上・下 |
2002年正月、浅田次郎が昨春発売した「壬生義士伝」を10時間ドラマ化した正月特番を見た。
本書は、南部藩を脱藩した新撰組隊士・吉村貫一郎の生涯を、ある記者(おそらく子母澤寛)が新撰組の生き残り隊士や吉村貫一郎の子供の関係者等を取材しながら浮き彫りにする。
最後は父親の顔を見ることなく育った末っ子の吉村貫一郎(吉村貫一郎は一度も見ることができなかった子に愛情から自分の名前を与えた)が東京農大を出て吉村早稲を完成させて故郷に錦を飾るところで終わる。 | ||||
会津士魂 |
一 会津藩 京へ | 会津藩主松平容保は京都守護職を拝命し藩士を率いて上洛した。京都では尊攘テロの嵐が吹き荒れていた。 | |||
二 京都騒乱 | 新選組が京都守護職の前衛となり、尊攘過激派を封じるべく池田屋を襲撃する。 | ||||
三 鳥羽伏見の戦い | 公武合体を目指す幕府と朝廷に対し、薩長同盟が成立。孝明天皇亡き後、将軍慶喜が大政を奉還し、やがて戊辰戦争の火蓋が切られた。 | ||||
四 慶喜脱出 | 鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗退すると、将軍徳川慶喜は大阪城を捨て海路江戸へ。松平容保は止むなくこれに従った。 | ||||
五 江戸開城 | 慶応四年四月、江戸城の明け渡しが行われ、徳川慶喜は水戸へ去ったが、上野の山にこもった彰義隊が西軍と壮絶な戦いを繰り広げた。 | ||||
六 炎の彰義隊 | 朝敵と目された松平容保は会津へ帰国。西軍は会津討伐へと動く。 | ||||
七 会津を救え | 恭順か抗戦か、力を正義として押す薩長の西軍に会津藩は呻吟した。会津を救うべく仙台、米沢藩を中核とした奥羽列藩同盟が成立、その無実を訴える。 | ||||
八 風雲北へ | 歩兵奉行大鳥圭介は、土方歳三らと旧幕軍を率いて宇都宮、日光、今市と転戦。奥羽への関門白河城をめぐる攻防が激しかった。 | ||||
九 二本松少年隊 | 阿武隈川流域の磐城地方では、西軍と奥羽越列藩同盟軍の攻防が熾烈を極めたが、三春藩反盟もあって戦火はついに二本松城に及ぶ。 | ||||
十 越後の戦火 | 越後も戦火に見舞われる。沼田に終結した西軍は三国峠から小出、小千谷を抜いた。長岡藩家老河井継之助の和平工作も叶わなかった。 | ||||
十一 北越戦争 | 長岡城の血戦はやがて西軍の勝利に帰し、河井継之助は会津への途次傷病死する。西軍、会津へ迫る。 | ||||
十二 白虎隊の悲歌 | 西軍は母成峠をはじめ会津の防塁を次々と破り会津若松城下に迫った。砲撃で炎上する城下を落城と見て白虎隊は悲壮な決断を。 | ||||
十三 鶴が城落つ | 城下はもとより会津盆地の随所で白兵戦が繰り広げられた。そして九月半ば、圧倒的な火砲をもった西軍三万の総攻撃が始まった。 | ||||
第八巻<巻末エッセイ>(女優 村松英子氏)より抜粋 |
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続 会津士魂 |
一 艦隊蝦夷へ | 開城降伏後の会津は西軍の天下で、戦死した藩士の埋葬すら許されなかった。榎本武揚は旧幕艦隊を率い、蝦夷へ向かう。 | |||
二 幻の共和国 | 函館五稜郭に入場した榎本武揚らは新政府樹立を宣言。明治政府の新鋭軍艦「甲鉄」を奪取せんと、海戦の火蓋が切られた。 | ||||
三 斗南への道 | 政府軍の総攻撃に榎本武揚は五稜郭を開城降伏した。世子容大が誕生した会津は、家名再興と引換えに北地転封を迫られる。 | ||||
四 不毛の大地 | 下北半島に移った会津改め斗南藩。首脳陣と藩士らの必死の努力にもかかわらず、北涯の地での生活は困窮する一方だった。 | ||||
五 開牧に賭ける | 廃藩置県で藩士が四散する中、斗南に残った広沢安任は日本初の西洋牧場を設立。幾多の混乱を乗り越えて、牧畜に挑む。 | ||||
六 反逆への序曲 | 山川健次郎と妹捨松らは官費留学生に。同じ頃渡米した元藩士移民団はワカマツ・コロニーを拓くが、開拓の道は険しく...。 | ||||
七 会津抜刀隊 | 斗南藩首脳陣の永岡久茂は官を辞して上京、その胸には新政府への憤りがあった。西では不平士族らが不穏な動きを見せる。 | ||||
八 甦る山河 | 士族らの不満は前原一誠の萩の乱、永岡久茂の思案橋事件へと発展。西郷隆盛が賊徒となった西南の役に、会津人たちは...。 | ||||
「続 会津士魂」最終巻「あとがき」(著者 早乙女貢氏)より抜粋 |
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松平容保は朝敵にあらず |
会津藩、新選組、遊撃隊を中心とした歴史エッセイ集。 著者が様々な歴史雑誌に執筆したエッセイを一冊にまとめたものであるが、中身は濃く、読み応え十分。 日本最初の教科書改訂運動が実は会津藩に関する記述だったという話などはとても興味深い。(2003.2) |
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華族誕生 |
明治とともに誕生した華族階級について、本書は誰が華族になったのかを中心に、詳しく丁寧にまとめている。 四民平等と言って討幕したのもつかの間、薩長による新政府は従来の公卿142家、諸侯(藩主)285家に対し、明治2年、新たに華族という階級を与えた。 そして明治17年、華族令の公布と共に公侯伯子男の爵位制度が生まれ、新旧合わせて509家の華族が叙爵された。 以後、華族制度は昭和20年に日本国憲法が公布されるまで80年間続いたのである。 誰を華族にするか、どの爵位を与えるかの実権を握っていたのが、長州の足軽上がりだった伊藤博文と、孝明天皇に京都を追い出された三条実美だったのだからお手盛りになるのは必至であった。 このとき討幕に狂奔した薩長の下級武士が勲功ありとして大勢華族の仲間入りを果たしているが、士族から華族になった家の大半が薩長出身という露骨さだったのである。 華族には使い切れない莫大な年金と貴族院議員という世襲できる特権が与えられていた。(2003.3) |
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写真集松平容保の生涯 |
松平容保の生涯を豊富な写真を使いながら克明に描く。 会津松平家の系図、折に触れて容保が詠んだ和歌や容保の手紙などが紹介され、著者の容保に対する暖かいまなざしが伝わってくる。 さわやかな読後感を提供してくれる。(2003.3) |
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関が原 上・中・下 |
豊臣秀吉の5人の家老うちのふたり、頭脳明晰な石田治部少輔三成と老獪な徳川家康との関係を軸に徳川幕府成立の過程を克明に描く。 これを読めば誰でも石田三成が好きになるに違いない。 徳川家康のいやらしさがこれでもかというほど伝わってくる。 司馬遼太郎の文章は滑らかで素晴らしく、読み応え十分。(2003.4) |
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定本 新撰組史録 新装版 |
近藤勇の書簡など豊富な資料にもとずきながら幕末から明治維新への流れと新撰組の関わり合いが冷静に描かれる。 原文のまま引用されている多くの書簡を通し、近藤勇の教養を感じることができる。 また著者は高知出身であるが、偏見無く近藤勇を描いていることも印象に残る。 明治33年生まれの著者は私の父より1歳年上ということもあり、少々親近感を感じた。(2003.5) |
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わが師 山本周五郎 |
早乙女貢氏が師と仰ぐ山本周五郎について、出会いから亡くなるまでの思い出を師の作品を通して語る。 本書の中で早乙女貢氏は会津へのこだわりや「会津士魂」を書くに至った動機についても触れているのがうれしい。(2003.7) |
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士道遥かなり |
一 浪士隊京へ | 士魂を綴る渾身の大作!侍への夢を抱いて浪士たちは動乱の京に入った。 | |||
二 池田屋斬込み | 京の巷に乱舞する若き士魂。池田屋事件は新撰組の名を一躍天下に轟かせた。 | ||||
三 京洛の血風 | 長州と薩摩が同盟の密約!倒幕の気運が高まるなか伊東甲子太郎らによる新選組分断の画策が・・・。 | ||||
四 龍馬を斬れ | 真の武士はおれ達だ!長州征伐の戦雲、急を告げるなか天皇・幕府・会津藩への忠誠を誓い新選組は剣をふるう。 | ||||
五 五稜郭に死す | 鳥羽・伏見の戦いに幕府軍は敗北。近藤勇と流山で別れた土方歳三は関東、東北を転戦し五稜郭へ − “武士の魂”は最後の戦いを挑んだ! | ||||
会津藩はなぜ「朝敵」か |
幕府側の日本改造計画の立案者、西周助の構想は「政府の権限、朝廷の権限、大名の権限の三つを柱としていた。慶喜は政府を代表する行政権の首長に位置づけられ、諸大名は立法機関である議政院に所属していた。 議政院は上院、下院の二つからなり、上院は大名によって、下院は各藩から一人ずつ藩士を出して構成する」とした。 この方式は広く天下の意見を聞くという点で薩長藩閥政治よりはるかに優れたシステムであったと著者は言う。同感である。 慶喜さえもっとしっかりしていたらと思わずにいられなくなる。 また長州とは手を握らないとする会津の歴史研究家故宮崎十三八氏に対して「朝敵は謀略によってつくり出された差別用語であった。 このことを事実として国民が認識するまでは、手を結ぶべきではないことは明らかだった」と賛同している。これについても全面的に同感である。(2005.4) |
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会津藩VS長州藩 |
筆者はこれまで、長州と会津は和解すべきではないとの考えだったが、この本を書いた頃から和解した方が良いと思うようになり、和解のための努力を始めたそうである。 しかし、私はそうは思わない。 その努力は、誤った明治維新観の是正のためにこそ傾けるべきではないかと思う。 長州と会津が和解したところで誤った明治維新観が変わるわけではないからである。 誤った明治維新観を日本人が認識することが一番大切なことであって、和解してしまったら誤った明治維新観はおそらくそのまま定着するであろう。 長州の300年に及ぶ怨念に比べれば、会津の100数十年のこだわりなどささやかなものである。 また、会津城下を蹂躙したのは長州人ではなかったとの指摘があるが、それは結果論で、長州にはそもそも無理やり戊辰戦争を引き起こした責任があり、会津城下に入らなかったからと言って蹂躙した責任を免れることはできない。 (2005.4) |
真実の歴史を知らぬ者に明日はない 明治維新というと随分昔のように思っている人が多いが、まだ130年そこそこである。 私が白虎隊士と同じ年齢のころ、その白虎隊の生き残りの人たちがいた。 そんな遠い昔ではない。にも拘らず、その明治維新の実相が知られていない。 戊辰戦争に於ける勝利者である薩摩・長州の二藩が中心となって明治新政府が樹立すると、都合の悪い部分は隠蔽され、都合のいい部分だけが強調され、勝者の側から見た歴史が教え込まれたからにほかならない。 徳川幕府が解体して、明治元年から文明開化とともに民主主義の時代が来たかのように錯覚している人が多い。 そのように明治政府が偽装し、教育してきたからである。 民主国家の最低基準といってよい国民選挙の議会制度が確立したのが明治23年で、つまり、倒幕以来22年間も薩長閥政府の恣意による政治が行われて来たのだ。 その間に、明治維新の真実は、強権によって抹殺されてしまい、“勤皇の志士”なる呼称は討幕派の専売特許となってしまった。 そこに大きな嘘がある。 孝明天皇を瞞して、偽勅を出したのは誰か、天皇の怒りに触れて京都を追い出されたのが、その“勤皇の志士”たちだった事実。 京都御所に大砲を打ちこみ、幼なかった後の明治天皇を失神させた者たちが、その“勤皇の志士”を標榜していたのだ。 真実の“勤皇の志士”は誰か。 それは孝明天皇の御宸翰(ごしんかん=天皇直筆の文書)と御製(ぎょせい=天皇の作った詩歌)が証明しているのだが、天下をとった薩長は、必死になってその証拠を抹殺しようとした。 歴史の真実は一つである。 私はその真実を明るみに出すため、百年に及ぶ虚偽の歴史のヴェールを引き剥がすために、先ごろ歴史小説『会津士魂』正続21巻を上梓したのだが、一たん、頭に植えつけられた観念は容易に払拭し難い。 だが、真実を一つ一つ積み重ねることで、濃霧が溶けていくように、判然してくると信じている。 真実を知ることは、ある意味では恐ろしいかもしれないがそれをおそれていては、生きてはゆけない。 歴史を知らぬ者に明日はないのである。 2002.10〜2002.12 NHK教育テレビ放送 |
「会津の真実」書くのが宿命 早乙女貢 (2005.7.9 朝日新聞 夕刊) |