1820年代:川原慶賀筆「長崎出島之図」 (図をクリックすると拡大図を見ることができます) 2001年2月17日(土)から19日(月)まで長崎を旅行しました。 ちょうどこのとき長崎は日蘭交流400周年を記念して昨年1月より本年3月まで「ながさき阿蘭陀年」が開催されている最中で、出島とオランダ国旗をモチーフにしたシンボルマークの旗が市内いたるところに飾られていました。 旅行中は好天に恵まれ、とくに19日は2月というのにセーター1枚で気持ちよく歩きまわることができるほど気温が上がりました。 17日は原爆資料館を訪ね、18日は島原城や城下の武家屋敷を散策するなどして大半を島原で過ごし、19日は路面電車を利用しながら大浦天主堂、グラバー園、オランダ坂をゆっくり散策しました。 グラバー園では一軒一軒を丹念に観察して当時の住人たちの生活を想像したり、日本ではじめての洋食レストランといわれる洋食亭でかるい昼食を取って、しばし当時に思いを馳せました。 そして今回の旅行で最後に訪れたのがこの出島です。 出島については教科書で見た、あの海に突き出た扇形をした島の絵しか思い浮かばないので、まずは出島が一体どこにあったのか知リたいと思い、出島伝統芸能館を訪ねました。 受付にはMさんという方(シンクロ水泳の元五輪選手でスポーツキャスターの小谷実可子さんを彷彿とさせる魅力溢れるご令嬢でした)がいて地図でその場所を説明していただいたのですが、ちょうど交代の時間だったらしく「それでは私がご案内いたしますから」と云って親切にも現地まで案内して下さいました。 道々、復元が進められていることなどをお聞きして初めてこの計画の存在を知ることになったわけですが、予想外の展開に大いに胸を膨らませました。 ここでごく簡単に出島の歴史をおさらいすると、出島は1636年(寛永13年)に徳川幕府によって築造され、1897年(明治30年)に埋め立てによって消失するまで実に261年の長きにわたり“出島”として存在していました。 はじめはポルトガル人を隔離するために造り居住させたのですが、まもなく国外追放してしまったために、幕府は1641年(寛永18年)から鎖国の終わる1859年(安政6年)までの218年間、それまで平戸にあったオランダ商館をここへ移転させて使わせました。 その間、出島は鎖国日本において唯一世界に開かれた地となり、ある程度制限されてはいましたが貿易を通して海外の文化、技術を吸収する重要な拠点となっていました。 ほどなく現地に着きましたが、出島があったというその場所はほぼ扇形に形取られていて、復元されたばかりの真新しい建物が、まさにここにあったという本来の位置に建ち並んでいました。 私は眼前に広がるその素晴らしい光景に目を見張り、息を飲み、そしてとても感動しました。 建物があった位置を正確に割り出し、一棟一棟忠実に再現していることは一見して理解できます。 Mさんは場内のあちらこちらを案内して、発掘された石垣のことなどを熱心に説明してくれました。 おかげで、出島の全体像を要領よくしかも楽しく理解することができました。 この日は時間に余裕がなくて資料館まで見ることができず、観光客向けのシアターと復元された建物を一通り見た程度でしたので、いずれ時間を気にせずじっくり見たいと思います。
残念なことに約1.5ヘクタール(約15,000m2、周囲約564m)あった出島は明治に入って少しずつ埋め立てられ、1897年(明治30年)に扇形の姿を失っています。 上の写真で出島の北岸(写真の下方向)が削られて中島川の中になってしまっていることや、西側の一部が幹線道路に掛かっていることがよくわかります。 このため復元された北岸中央の表門の位置は実際にあった場所よりも17、8メートル南にずれてしまっているようです。
現在すでに5棟ほどの復元が完了していますが、2010年を目標に建築可能な場所に25棟が復元されるそうです。 しかし、中期計画では削られた北岸はそのままなので、完成予想図からわかるようにオランダ国旗の立っているあたりが北端になってしまうようです。
したがって出島の復元計画は、この長期計画が達成できるかどうかがハイライトになります。 最終的に、中島川の位置と幹線道路の位置を変更して本来の扇型に戻し、水で囲まれた完全な出島を再現しようという計画です。 想像しただけでわくわくする話ではありませんか、完全復元される日がとても待ち遠しいですね。 私にとって今回の出島との出会いはとても興味深いものでした。 出島を完全復元しようという計画が何と言っても素晴らしいし、ロマンを感じます。 私も何かお手伝いをしたくなり、ここにその計画を紹介することを思い付いた次第です。 一人でも多くの方に知ってもらうことができればうれしく思います。 復元が完了するその日まで、出島から目を離さないようにウォッチしていくつもりです。 なお帰る際し、Mさんは長崎駅までの道順を丁寧に教えてくださっただけでなく、時間を置いて無事に乗車できたかどうかの確認のお電話までくださいました。何という優しいお心遣いであることか。とても感動しました。 貴重なお時間を使って案内していただいて良い思い出を作ってくださったMさんにはいくら感謝しても感謝しきれません。 ※上記の写真及び図はすべて長崎市教育委員会の了解を得て長崎市のホームページよりお借りしました。
「出島」関連サイト (2001年3月20日) |