江戸時代後期天保11年(1840)ごろの鶴岡城と三日町橋(現三雪橋)付近 (図をクリックすると拡大図を見ることができます) 山形県鶴岡市は庄内藩の城下町として有名ですが、町としては平安期(1100年代)にはすでに大宝寺とか大梵寺という名前で存在していたようです。 「鶴岡」という名前は慶長8年(1603)に最上義光によって大宝寺城を鶴ヶ岡城と改名したことに由来しています。 鶴ヶ岡城に改めた理由としては、酒田の海岸で大きな亀が捕まったのを機に酒田の東禅寺城を亀ヶ崎城と改めことから、同時に大宝寺城を鶴ヶ岡城としたと伝えられています。 また、「庄内」は戦国期(1500年代)に「大泉庄」という荘園の地頭が庄内平野全域を治めるようになった頃から「庄内」と呼ばれるようになったそうです。 私は毎年夏に鶴岡へ帰省して(家内が大山出身なので)、市内の致道博物館や藩校致道館の建物を見ることをとても楽しみにしています。 そして今回、同市出身の藤沢周平の『蝉しぐれ』に登場する“海坂藩”が、この庄内藩をモデルにしていることを知り一層興味が深まりました。 鶴ヶ岡城の周囲 幕末期、庄内藩は会津藩とともに、会津を薩長から救うべく仙台藩と米沢藩を中心に結成された平和同盟である奥羽越列藩同盟の諸藩(出羽天童藩を除く奥羽25藩と北越6藩合わせて31藩)に守られたものの官軍の勢いに降伏し、鶴ヶ岡城も官軍の支配下に置かれました。 その後明治政府による廃藩置県の政策によって本丸などの建物が取り壊され(明治9年)、周囲の掘も大幅に埋め立てられて(明治9年)、急速に江戸時代の面影を失ってしまいました。 廃藩置県の政策が浸透するにつれ、藩の遺産が簡単に破壊されていったのは全国的な現象だったようです。 おそらく当時は歴史的価値で捉えるという意識が薄かったために保存する重要性をあまり感じなかったのではないかと思われます。 鶴ヶ岡城も城内は公園として整備されたものの、それまで城の守り神として城の片隅にあった荘内神社が本丸跡に建設されるとともに、大手門の位置には大きな鳥居が建てられてしまったために(明治10年)、城のイメージはほとんど無くなってしまいました。 わずかに残った周囲の堀が、そこに城があったことを示しているだけです。 城の西側は侍町の三の丸(現在は家中新町)となっていますが、西門前には致道博物館があります。 ここは藩の御用屋敷があった所で、藩主の御隠殿が当時の場所にそのまま残っています。 また博物館には重要文化財として、旧西田川郡役所や旧鶴岡警察署などの美しい明治建築様式の建物が移築されています。 これらの明治建築様式の建物は現在では市の象徴的建物となっています。 私が鶴岡市に初めて持った印象は、致道博物館の美しい建物がもたらす何とも言えないすがすがしさでした。
大手門に連なる三日町通り 鶴ヶ岡城の大手門から東へ一直線に延びる通りは三日町通り(現在はみゆき通り)と呼ばれていました。 三日町木戸門、三日町橋、通り丁(ちょう)を経て、昭和町に至る通りです(上の城下町絵図を参照)。 通り丁は現在は銀座通りになっています。 絵図の中で大手橋を渡ったところに描かれている「冠木門」と「馬出し」はなかなか興味深く思います。 残念ながらこの通りに当時の面影はまったく無く、絵図と見比べながら想像力をたくましくして見ることしかできません。 藩校致道館 致道館は東北地方にただ一つ現存している藩校です。 はじめは文化2年(1805)に今の鶴岡駅近くに建てられましたが、文化13年(1816)に現在の場所に移築されたようです。 しかし、現在はその建物の一部だけが残っています。 致道館は藤沢周平の“海坂藩”では“三省館”の名で描かれます。 私は大山街道に繋がる通りに面した塀がとても気に入っています。
内川 鶴ヶ岡城の東側には堀の役割も果たす内川が南から北に流れています(地図参照)。 この川は藤沢周平の“海坂藩”では“五間川”の名で描かれます。 「蝉しぐれ」は“五間川”を舞台にした小説である言えるほど“五間川”が頻繁に出てきます。 “河岸通り”を青年時代(といっても15、6歳)の牧文四郎、小和田逸平、島崎与之助の3人が石栗道場の帰りに歩く情景では青春時代の懐かしさのようなものを味わうことができます。
藤沢周平「蝉しぐれ」との出会い 今年の春先ごろ文庫本を買いに近所の本屋へ行ったときのこと、お目当ての本と並んで平積みされている藤沢修平の「蝉しぐれ」がふと目にとまりました。 氏の作品はそれまで読んだことはありませんでしたが鶴岡市の出身であることは市のホームページで知っていました。 裏表紙のあらすじを読んでみるとなかなか面白そうだったので帯の宣伝文句を信じて一緒に買ってしまったのですが、これが何と当たりだったのです。 内容は15歳になる青年が、剣の修練を積みながら様々な人間関係の中で藩士として成長していく過程を描いたもので、さわやかさと感動が残る読み応えのある小説です。 私は主人公の牧文四郎が父を思い返す場面では涙が溢れて仕方がありませんでした。 小説を読んで泣いてしまったのは島崎藤村の「破戒」以来二度目のような気がします。 というわけでそれ以来私は氏の作品にはまってしまい、「風の果て」など片っ端から読んでいます。 これまで時代小説は食わず嫌いでしたが、遅まきながらここ何年か幕末ものを読んで面白いことを知りました。 余談になりますが、時代小説では斬り合う場面が娯楽性として重要ですが、昔の時代小説では、エイッ!とかヤッ!といった表現で済ましていたそうです。 それが五味康祐や柴田錬三郎の登場によって精密に描写されるようになったということです。 そう言えば、昔の時代劇テレビドラマでは刀を振ってもなにも音がしませんでしたが、「三匹の侍」ではじめて風を切る効果音が付いて迫力が出るようになったことが印象に残っています。 今にして思うと、おそらくそれは小説と機を一にする流れだったのかも知れません。 鶴岡の街作り 江戸時代の鶴岡の街作りついては鶴岡市から委託を受けた「早稲田大学都市計画系佐藤研究室」のホームページに詳しい研究成果が報告されています。 参考資料 (2001年8月31日) |