平城宮復元計画

平城宮復元計画



2010年4月から開催される平城遷都1300年祭を来年に控えた2009年11月26日(京都旅行の帰途→D200写真集/京都の文化遺産/京都の街/京都・東福寺の桜)、復元工事中の平城宮を見てきました。 1300年前の和銅3年(710年)、約20キロメートル南の藤原宮(奈良県橿原市)から平城京に遷都され、奈良時代は幕を開けました。 奈良時代は、この平城京に遷都された710年から長岡京に遷都される784年までの74年間をいいます。 その後長岡京は10年しか続かず、794年には平安京(京都)に遷都されました。 平城遷都1300年祭は、この遷都1300年を記念して開催されます。 (2009.12.27)


<文中の(→衛星写真)をクリックすると GoogleMAP の衛星写真が見られます>


平城京と平城宮

平城京復元画像(出典不明、文字は当方)
平城京復元画像(出典不明、文字載せは当方)
平城京の位置と大きさ
平城京は奈良盆地の北部にあり、南北約4.7キロメートル、東西約6.3キロメートルの広さがあり、京都の平安京よりやや広い。平城京の中央を南北に貫く朱雀大路は幅74メートルもある(→衛星写真)。当時の平城京の人口は10万人から20万人と推測されています。平城京については江戸時代の末(1850年頃)から研究が始まり、明治の終わり頃には、奈良時代の都の姿がほぼ明らかになったようです。平成10年(1998年)、平城宮跡を含む「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産に登録されています。上の画像は北側から南側を見たもの。
平城宮の位置と大きさ
平城宮は平城京の北端に位置し、広さは、東西約1200メートル、南北約1000メートル、面積約130ヘクタール。そして平城宮の南端に朱雀門(すざくもん)、その北に第一次朝堂院(ちょうどういん)、北端に大極殿正殿(だいごくでんせいでん)を中心とする第一次大極殿院が一直線に配置される。さらに、東側には第二次朝堂院と第二次大極殿院の遺構も発見されています(→上図)。
平城宮の復元計画
建物の復元計画は、朱雀門(1998年完成)と、天皇が執務した大極殿正殿(2009年秋ほぼ完成)と周囲の回廊からなる「第一次大極殿院」(南北320メートル、東西180メートル)、および「第一次朝堂院」(南北290メートル、東西220メートル)で(第一次朝堂院は遺構のみの可能性あり)、その他は遺構のみの展示になるようである。復元に当たっては、平城宮内を通る近鉄奈良線も移動しなければならず、全体の完成は数十年先になる可能性が高い。(→衛星写真


第一次大極殿正殿

正面中央の扁額(へんがく)
正面中央の扁額(へんがく)
正面中央には、大極殿正殿の名称「大極殿」を記した扁額(へんがく)が掲げられている。大きさは高さ約2.6メートル。色彩は「紺丹緑紫」を基本としているようである。(参考→平城宮跡第一次大極殿復原−扁額に関する研究扁額の意匠と構造
大極殿正殿正面
大極殿正殿正面
平成13年(2001年)に着工し平成21年(2009年)秋にほぼ完成し、堂々たる姿を現した大極殿正殿。天皇が執務した建物であり、平城宮で最も重要な建物となる(→衛星写真) 。
大極殿正殿
大極殿正殿
南側(内側)より撮影。高さ27メートル、幅44メートル。
大極殿正殿
大極殿正殿
東側の第二次大極殿院(遺構)との間の通りから撮影。
大極殿正殿の基壇部
大極殿正殿の基壇部
工事名称は「平城宮跡第一次大極殿正殿復原工事」 後ろに回って基壇部を見る。工事名称は「平城宮跡第一次大極殿正殿復原工事」となっている。工事用車両の出入口から撮影。


朱雀門

完成している朱雀門
完成している朱雀門
平城宮への入口となる朱雀門。平成10年(1998年)に完成(→衛星写真) 。二層構造の建物となっているが、一層構造だったと主張する研究者もいる。手前(平城宮内側)に近鉄奈良線の架線が見える。北側(平城宮内側)より撮影。


© Takashi Okamura / volvolife.jp
当サイトの写真は著作権法で保護されています。
無断転載及び無断利用を禁止します。
ご入用の方はこちら(→okamura@volvolife.jp>)まで
ご相談ください。