ハイネが詩集「詩人の恋」の冒頭で"Im wunderschonen Monat mai"(美しい五月に)と表現する、ドイツが一年中で一番美しいといわれる5月に開催され、しかもバッハゆかりの地が多く含まれるツアーがタイミングよく見つかり、2009年の5月25日から10日間ドイツに行くことができました。
今回はじめてドイツへ行って、その国土の美しさを“痛感”してきました。 アウトバーンを走って先ず目を奪われるのが、ゆるやかな丘陵がどこまでも続く緑豊かな風景と、よく澄んだ美しい青空です。 そこに見えるのは美しい建物と自然の調和で、景観を邪魔するものがひとつもないことが、風景の美しさを何倍にもしています。 景観を保つための努力もかなり払っているようで、路肩、田畑、街中に看板のたぐいは一切無く、電線も地中化、川辺も自然のまま、風力発電の白い風車も景観を損なわないよう、根元部分を緑色に塗り、上にいくにしたがって白くなるようにグラデーションを施すという念の入れようです( アイゼナッハ近郊にて)。 こんなきれいな国土(お金には代えられない財産)を持つドイツ国民を正直言ってとてもうらやましく思いました。 というわけで、ドイツはバッハが好きになった高校生の頃から憧れていた国(→バッハ傾聴)であっただけに、はじめてのドイツ旅行は感動の連続となりました。 (2009.7.26)
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フランクフルト(Frankfurt)
リューデスハイム(Rüdesheim)
ザンクト・ゴアルスハウゼン(St. Goarshausen)
ハイデルベルク(Heidelberg)
ローテンブルク(Rothenburg)
ホーエンシュバンガウ(Hohenschwangau)
フュッセン(Füssen)
ミュンヘン(München)
ニュルンベルク(Nürnberg)
ドレスデン(Dresden)←1736年、フラウエン教会で新設オルガンの独奏会
マイセン(Meissen)
ベルリン(Berlin)
ポツダム(Potsdam)←晩年、息子が仕えたサンスーシー宮殿に招かれる
クヴェトリンブルク(Quedlinburg)
ライプツィヒ(Leipzig)←最後の27年間(38歳〜65歳)を過ごした地
ヴァイマル(Weimar)←青年時代の9年間(23歳〜32歳)を過ごした地
アイゼナッハ(Eisenach)←生誕の地、10歳まで過ごした地
ヘッセン州リューデスハイム − ヘッセン州ザンクト・ゴアルスハウゼン
Rüdesheim - St. Goarshausen
リューデスハイムのドロッセルガッセ(つぐみ通り)(→衛星写真)。ここからザンクト・ゴアルスハウゼンに向けて1時間半のラインクルーズに出発。路地の両側にはみやげも店が並ぶ。地場の特産ワインを試飲。(2009.5.26)
リューデスハイム
ラインクルーズ
船上では偶然にも成田からの飛行機で隣の席だったご夫妻と遭遇。別のツアーに参加されていましたが、話をしてみれば何と40年前のP社時代、同じ時期に同じ技術部にいた先輩でした。ライン川沿いのきれいな風景を眺めつつ、しばし思い出話に花が咲きました。(2009.5.26)バッハラッハに程近い丘の上にあるシュターレック城。この城は12世紀に造られたもので、現在はユースホステルとして使われている(→衛星写真)。斜面にはブドウ畑も多い。(2009.5.26)
シュターレック城ほぼ中間地点にあるバッハラッハ(Bacharach)(→衛星写真)。ここもきれいな町である。この丘の山の上にシュターレック城がある。(2009.5.26)
バッハラッハ
川の中州に建つこの城は通行税を取るために造られた城らしい(→衛星写真)。(2009.5.26)
プファルツ城城は11世紀頃からあったが、現在の城は18世紀末に再建されたもの。高級古城ホテルとして使われている(→衛星写真)。(2009.5.26)
シェーンブルク城ザンクト・ゴアルスハウゼン(→衛星写真)。われわれはここで下船。(2009.5.26)
ザンクト・ゴアルスハウゼンお楽しみの昼食は船着場前のレストラン「ラインゴールド」。ビールやワインのグラスには必ず目盛が表示されているが、いかにもドイツらしい厳密さ。昼食後、宿泊地となるハイデルベルクまで100km移動。(2009.5.26)
レストラン「ラインゴールド」
バーデンヴュルテンベルク州ハイデルベルク
Heidelberg
ハイデルベルク城(→衛星写真)は13世紀前半ごろ造られたらしいが破壊のたびに再建と増築を繰り返してきた。しかし18世紀中ごろ修復中に起きた落雷被害で修復を断念。(2009.5.26)
ハイデルベルク城入口左が1900年に復元されたフリードリッヒ館。右が廃墟のままのオットーハインリッヒ館(1546年)。フリードリッヒ館以外は現状を維持するための修復のみ行われている。(2009.5.26)
ハイデルベルク城フリードリッヒ館のバルコニーから見た旧市街地。ネッカー川に架かる手前の橋がアルテ橋(古い橋)。この橋も城と同じ時期に造られたが現在の橋は1947年に復元されたもの。ネッカー川はこの先のマンハイムでライン川に合流する。(2009.5.26)
ハイデルベルク旧市街アルテ橋(→衛星写真)の上から城を望む。(2009.5.26)
アルテ橋の上から城を望む
城は町を見下ろすように旧市街の頭上まで、威圧的に迫っている。(2009.5.26)
旧市街に迫る城旧市街のマルクト広場(→衛星写真)。(2009.5.26)
マルクト広場1592年に造られた長い歴史をもつ建物(→衛星写真)。現在は「ホテル・リッター」として使われている。(2009.5.26)
ホテル・リッターハイデルベルク大学図書館の近くにある大学広場(→衛星写真)と付近のショッピング街。(2009.5.26)
大学広場
古城街道
Burgen Straße
日が変わって、ハイデルベルクからローテンブルクまで約180km、ネッカー渓谷沿いの古城を見ながら2時間半の移動。古城街道はマンハイムからチェコのプラハまで全長1000kmに及ぶ街道。このヒルシュホルン城は13世紀に建てられる。現在は古城ホテル(→衛星写真)。(2009.5.27)
ヒルシュホルン城ネッカー川に面した斜面に建つ美しいこの城は(→衛星写真)、現在も、かつてこの地域を支配していたバーデン家が居城として使っている。(2009.5.27)
ツヴィンゲンベルク城見事なスカイラインを見せるバート・ヴィンプフェンの街並みは街道から見ても美しいが、街中もとても美しそうである(→衛星写真)。高い塔は城ではなく教会。右の建物は景観に配慮したホテルか集合住宅のように見える。ハイデルベルクとローテンブルクのほぼ中間地点。(2009.5.27)
バート・ヴィンプフェンの町2006年に自動車生産100周年を祝ったアウディ(当時はNSU)のネッカーズルム工場(→衛星写真)。この工場ではアウディのプレミアムスポーツカーR8が1日20台程度生産されているという。建物前にずらりと並んでいるR8が見える。R8の日本での価格は1670万円。(2009.5.27)
アウディのネッカーズルム工場
バイエルン州ローテンブルク
Rothenburg
ローテンブルクの見どころは城壁に囲まれた旧市街。城壁南端のシュピタール門から入るとマルクト広場まではまっすぐ。先の方にジーバーの塔が見える。(2009.5.27)
シュピタール通りマルクト広場までの中ほどにあるジーバーの塔(門)を過ぎるとシュミート通り。ジーバーの塔は1385年に建てられたが、当時はこの門が市街地の南端だった。ローテンブルクは、中世の姿をほとんどそのまま残している。(2009.5.27)
シュミート通りこの写真はシュミート通りから振り返って撮ったもの。小さい写真は1900年撮影の同じ場所のカラー写真(Wikipedia)。完璧に復元されていることがわかる。(2009.5.27)
ジーバーの塔14世紀に建てられた教会。右奥に犯罪博物館がある。教会の向かい側(写真左手)にあるホテル(ローテル・ハーン)にて昼食。真ん中の道はジーバーの塔に向かう。(2009.5.27)
聖ヨハニス教会
シュピタール門から入って、ジーバーの塔を経て、マルクと広場に入ってきたところ。正面は仕掛け時計が有名な市議宴会場(→衛星写真)。(2009.5.27)
マルクト広場マルクト広場に面して建つ市庁舎(16世紀建造)。左側の白い鐘塔は13世紀に建てられた最初の庁舎で、高さが60メートルもある。小さい写真の手前右端の白い建物が鐘塔。(2009.5.27)
ローテンブルク市庁舎パンフレットでよく見るこの建物は市庁舎の向かい側。真ん中の建物の右端の店でスノーボールを買って店の前のテーブルで食べようとしたら、若い女性店員にドリンクを頼んでいない人はだめですと(申し訳なさそうに)怒られた。(2009.5.27)
絵本から飛び出したような建物坂を右(南)へ下って行くと、ジーバーの門がある。小さい写真の右端の建物は市庁舎。(2009.5.27)
広場は坂になっている
「第二次世界大戦の終戦直前にローテンブルクは、アメリカ空軍の爆撃を受け、保存されていた建造物の約40%が損傷または破壊された。」(Wikipedia)(2009.5.27)
左がホテル、右が銀行「損害の大部分は、旧市街でも比較的新しい地域であったため、最も重要な記念建造物は、被害を免れた。戦後、街は旧態に忠実に再建された。終戦後、アメリカは多額の再建資金援助を行っている。」(Wikipedia)(2009.5.27)
間を入って聖ヤコブ教会へ旧市街を囲む城壁はほぼ100%残っていて、城壁の階段を上がると歩いて一周することができる。(2009.5.27)
城壁北端15時過ぎローテンブルクを後にミュンヘンへ。ローテンブルクから次の宿泊地ミュンヘンまでは、南へ220km、2時間半のバス移動。(2009.5.27)
ローテンブルクを後にミュンヘンへ
森を大切にしていることを感じさせる風景である。(2009.5.27)
草原の中の小高い森赤い列車が緑の風景が絶妙に溶け込んでいる。(2009.5.27)
ミュンヘンへ向かう美しい列車ドイツは、どこへ行ってもこのように質の高い住宅ばかりなのである。(2009.5.27)
質の高い住宅18時過ぎ、ミュンヘン入り。ミュンヘンはBMWの本拠地(→衛星写真)。自動車ファン、とくに欧州車ファンなら見学もしてみたいところ。(2009.5.27)
BMW本社ビル
バイエルン州ホーエンシュバンガウ − バイエルン州フュッセン
Hohenschwangau - Füssen
翌朝は早出して、ミュンヘンからさらに南へ120kmのノイシュバンシュタイン城の麓町ホーエンシュバンガウへ。オーストリアとの国境が近づくと、山々が見えてくる。ほとんど平地のドイツでは、こういう景色はなかなか見られない。(2009.5.28)
オーストリア国境沿いの山々ノイシュバンシュタイン城への登り口となるホーエンシュヴァンガウ(→衛星写真)からはノイシュバンシュタイン城がよく見える。ここから徒歩でノイシュバンシュタイン城へ登る。(2009.5.28)
麓からの眺め先にマリエン橋へ行き、橋からノイシュバンシュタイン城を見る(→衛星写真)。城の右側が正面。修復中のためほとんど見えないのが残念。右の写真はマリエン橋から見たシュバンガウの町(→衛星写真)。(2009.5.28)
ノイシュバンシュタイン城城の右端に、人が2,3人いる中庭が見える。小さい写真は中庭から見たマリエン橋。(2009.5.28)
城とマリエン橋。
ノイシュバンシュタイン城まで登ると、麓町のホーエンシュヴァンガウの町(→衛星写真)がよく見渡せる。左がアルプ湖、右がシュヴァン湖。フュッセンの町が右端に少し見える。(2009.5.28)
ホーエンシュヴァンガウの町この城はノイシュバンシュタイン城を造ったルートビッヒ2世が育った城。(2009.5.28)
ホーエンシュヴァンガウ城ノイシュバンシュタイン城の正面入口と入口から入ってすぐの中庭。ここから城の中に入る。(2009.5.28)
ノイシュバンシュタイン城ノイシュバンシュタイン城の窓からはシュヴァンガウの町(→衛星写真)が見渡せる。(2009.5.28)
シュヴァンガウの町を一望
ノイシュバンシュタイン城からフュッセンに戻ったところで昼食。オーストリアとの国境から5kmほどしかないフュッセンはとても清潔な町。(2009.5.28)
フュッセンの町昼食をとったレストランはビール醸造も行っている1569年創業の Hotel “Bräustüberl”(→衛星写真)。
昼食をとったレストラン
食事をしているのは我々のお世話をしてくれた従業員。右は年配者には「危ない、危ない」といたわるほど日本語が上手で陽気なドライバーとの記念写真。(2009.5.28) ヴィースの町はフュッセンから25kmほどの所にあり(→衛星写真)、牧場の中にあるヴィース教会は1757年の建築。外観は何の変哲もないが、内陣の装飾がヨーロッパ屈指の壮麗なロココ様式であることから世界遺産になっている。左は教会前の牧場で見かけた猫。(2009.5.28)
ヴィース教会
バイエルン州都ミュンヘン
München
ミュンヘン市内は自動車が溢れている。目立つ車は、中型セダンではベンツ、BMW、アウディ、VW、ボルボ、小型車ではオペル、ルノー、シトロエン、フィアットなど。タクシーはほとんどベンツで、BMWはたまに見る程度。(2009.5.28)
ミュンヘン市内
新市庁舎を背にして広場の左側に旧市庁舎がある(→衛星写真)。小さい写真は広場の右側。(2009.5.28)
旧市庁舎マリエン広場に面している新市庁舎は明治期(1867年〜1909年)に造られた(→衛星写真)。1階部分をテナントとして活用している。当然ながら目立つ看板が無いところが大人社会。(2009.5.28)
新市庁舎
ドイツ旅行の楽しみはこれもある。ミュンヘン最後の夜は市内のビアホール、ホフブロイハウスで食事(→衛星写真)。(2009.5.28)
ビアホール「ホフブロイハウス」ドイツらしいビアホール。ステージ前の席から後ろを見渡す。ビヤ樽の中を連想させる天井デザインだ。(2009.5.28)
大勢がベンチシートで飲むステージではオーベルミュラー・ムジカンテンが演奏とダンスを披露。オーベルミュラー・ムジカンテンは、バイエルン地方を中心に活動している1886年創立の伝統あるブラスバンド。(2009.5.28)
Die Obermüller Musikanten"バイエルン地方の民族衣装(楽団の制服)を着たダンサーが軽快にダンスを披露。(2009.5.28)
軽快なダンスを披露
バイエルン州ニュルンベルク
Nürnberg
ミュンヘンは人口130万人を超えるバイエルン州の州都だけあって、駅もかなり大きい(→衛星写真)。(2009.5.29)
ミュンヘン駅人口50万、バイエルン州2番目の都市ニュルンベルクまで約1時間半の乗車であるが、バス移動とは違った楽しさがある。(2009.5.29)
9:15発ハンブルク行きICE680快晴のもと、沿線の景色はここでもやはり美しい。そういえば新幹線とは言え、それほどスピードは出していないようだった。(2009.5.29)
車窓よりニュルンベルク駅ホーム。小さい写真はニュルンベルク駅全景(→衛星写真)。地下街はかなり充実。(2009.5.29)
ニュルンベルク駅到着
地下街から旧市街地の南端にあるケーニヒ門に出たところ(→衛星写真)。旧市街地は城壁に囲まれていた。(2009.5.29)
旧市街地南端のケーニヒ門ここから聖ロレンツ教会までがケーニヒ通り。旧市街地はここからペグニッツ川までをロレンツ地区、川の向こう(北)側をゼーバルト地区と、教会の名前を付けて呼んでいる。(2009.5.29)
ケーニヒ通りこのまま真っ直ぐ行くとペグニッツ川(→衛星写真)、フラウエン教会を経てカイザーブルク城へとつながる。(2009.5.29)
聖ロレンツ教会前この教会も15世紀に完成した古い教会である(→衛星写真)。(2009.5.29)
聖ロレンツ教会
右の坂道を上がったところがカイザーブルク城の門(→衛星写真)。かなりの急坂を上がらないと城からの眺望を見ることはできない。この城は12世紀に建てられている。(2009.5.29)
旧市街地北端のカイザーブルク城後ろに見える塔は、聖ゼーバルト(セバルドゥス)教会。(2009.5.29)
カイザーブルク城からの眺望城から降りてすぐ右手に画家アルブレヒト・デューラーの家(右の家→衛星写真)があり、その前を下って行くと聖ゼーバルト教会(聖セバルドゥス教会)がある。デューラーが想像で描いたサイの絵は有名。(2009.5.29)
デューラーハウス前1225年に建てられた、二つの鋭い塔がとても美しい教会(→衛星写真)。聖セバルドゥス教会とも呼ばれる。バッハが尊敬していたニュルンベルク出身のヨハン・パッヘルベル(1653-1706)はアイゼナッハなど各地の宮廷楽長を務めた後、1695年にこの教会のオルガニストに就任している。(2009.5.29)
聖ゼーバルト教会
広場に面して建つフラウエン教会も仕掛け時計が有名(→衛星写真)。この広場で毎年行われるクリスマスマーケットはドイツ最大の規模とのこと。きっと夜景も素晴らしいことだろう。(2009.5.29)
マルクト広場とフラウエン教会広場で出会ったパグちゃんに、思わず近寄って可愛がりました。パグ犬に出会うといつもこうなる。(2009.5.29)
広場で出会ったパグちゃんニュルンベルクからドレスデンまで約320km、約4時間半の移動。まるで絵を見ているような光景がどこまでも連続する。(2009.5.29)
ドレスデンに向かう車窓からドイツでは聖霊祭のために29日(金)が三連休前日とあって、夕方になると道が混み始め、ドレスデン近郊でついに渋滞に巻き込まれてしまった。大幅に遅れて6時間かかってドレスデンに着いた時はもう午後8時になっていいました。でもこの時期ドイツは夜9時半頃まで明るいので、とくに遅い時間には感じないから楽しい(小さい写真参照)。(2009.5.29)
渋滞するドレスデン近郊
ザクセン州都ドレスデン
Dresden
ブリューエルのテラス(→衛星写真)から撮影したアウグストゥス橋。川のこちら側が旧市街地(アルテン・ドレスデン)、向こう側が新市街地(ノイエン・ドレスデン)。ドレスデンのエルベ川河畔は世界文化遺産。小さい写真は宿泊したドレスデン駅前のプルマンホテル(→衛星写真)。(2009.5.30)
エルベ川に架かるアウグストゥス橋1734年建造。1736年、バッハと交流のあったゴットフリート・ジルバーマン(1683-1753)のオルガンが設置され(現在は残っていない)、バッハはその奉納独奏会を行っている。しかし、第二次世界大戦終戦直前の空襲でドレスデン市街の約90%が破壊されると、様々な騒乱に耐え抜いたこの教会も、たった一夜にして瓦礫の山と化してしまう。(2009.5.30)
フラウエン(聖母)教会瓦礫の山は戦後、記念としてそのままの状態で放置されていたが、ドイツ統一後の1994年、ようやく復元が開始され、2005年に完了。復元中は全体が足場で覆われた(→衛星写真)。市民の喜びはさぞ大きかったであろう。復元する際は、可能な限り元の石が元の位置に戻されたようだ。写真の黒く見える石が本来の位置に戻った元の石、明るい石が新しい石。(2009.5.30)
復元後の現在の教会この写真はドレスデン城の近くで見かけた、第二次世界大戦前の教会写真を載せているDVDの宣伝ポスター。左の写真と同じ向きに写っているので、周囲の建物も忠実に復元されていることがわかる(同時拡大可)。ドレスデンは現在も復旧中で日々変化しているため、Googleマップの衛星写真が追い付けない状態である。(2009.5.30)
大戦前の教会の写真
左が1653年に建てられたザクセン州最大の旧宮廷教会(正式名は三位一体大聖堂→衛星写真)。右が12世紀末に建てられたザクセン王の居城だったドレスデン城(→衛星写真)。(2009.5.30)
旧宮廷教会とドレスデン城ドレスデン城北側のアウグスト通りには、通りに沿った外壁に、100mにわたって描かれた歴代君主の大壁画がある(→衛星写真)。マイセンのタイルを使って描かれたこの壁画は戦災を免れた。(2009.5.30)
アウグスト通り1841年に建てられたが大戦で破壊され、再建されたのは1985年。再建後初上演された演目は、創建時に初上演されたのと同じ、ウェーバーの『魔弾の射手』だったとの話。現在でもはほぼ毎日オペラが上演されているそうである(→衛星写真)。(2009.5.30)
ザクセン州立歌劇場
この建物はツヴィンガー宮殿(→衛星写真)で、入口から右側部分が絵画館。左側部分が武器博物館。小さい写真は若夫婦が両親を案内しているように見える。横顔から判断して、奥さんの方の両親か。微笑ましい(シアター広場→衛星写真)。(2009.5.30)
アルテ・マイスター絵画館絵画館に展示されているフェルメール(1632-1675)の《窓辺で手紙を読む少女》。(2009.5.30)
《窓辺で手紙を読む少女》(1659年)絵画館に展示されているリオタール(1702-1789)の《ココアを運ぶ少女》。(2009.5.30)
《ココアを運ぶ少女》(1744年)ドレスデンからマイセンまでは25km(→衛星写真)。マイセンは白磁器で有名なところ。有田焼の有田と姉妹都市だそうである。小さい写真はブランドマークの変遷。マイセンからベルリンまでは200km、3時間ちょっとの移動。(2009.5.30)
マイセン陶磁器工房
首都ベルリン
Berlin
内側のパリ広場から撮影(→衛星写真)。ブランデンブルクと聞けば、J.S.バッハのブランデンブルク協奏曲を思い出してしまう。(2009.5.31)
ブランデンブルク門ブランデンブルク門から東へ延びるウンター・デン・リンデン(菩提樹の下)通りの1kmほどの先のところにある(→衛星写真)。(2009.5.31)
フリードリッヒ大王騎馬像シュプレー川の中州に1830年から1930年まで100年をかけて建てられた「旧博物館」「新博物館」「旧国立美術館」「ボーデ博物館」「ペルガモン博物館」が世界遺産に登録されている。戦後、東西の博物館に半世紀近く分散されていた収蔵品の全貌が明らかになり、統合計画が始められ、先史時代から19世紀まで、6千年の西洋文明史をたどる作品が集結された。(2009.5.31)
ペルガモン博物館ペルガモン博物館にはヘレニズム、イスラムの美術品や遺跡が展示されているが、写真は紀元前560年頃のイシュタール門遺跡。リニューアル工事中のため、博物館の外観を見ることはできなかった(→衛星写真)。(2009.5.31)
バビロニアのイシュタール門遺跡
1894年に建てられたが、大戦で徹底的に破壊される。1964年に部分的に修復、1992年に全面的に修復された(→衛星写真)。ブランデンブルク門のすぐ北側にある。(2009.5.31)
ドイツ国会議事堂東西ドイツを分断した壁は1961年から1989年まであった。現在は一部を記念として残している。(2009.5.31)
ベルリンの壁壁を撤去したすべての跡に、壁があったことを示す印が刻まれている。(2009.5.31)
ベルリンの壁の跡
ブランデンブルク州都ポツダム
Potsdam
ベルリン滞在中、近郊のポツダムへ。ツェツィリエンホーフ宮殿は1917年に建てられた宮殿。山荘風の建物は頑丈な木をふんだんに使い、とても重厚で美しい(→衛星写真)。世界文化遺産。(2009.5.31)
ツェツィリエンホーフ宮殿中庭の花壇の赤い星型はソ連のシンボル。第二次世界大戦末期に開かれたポツダム会談には、アメリカのトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン書記長が出席した。(2009.5.31)
ツェツィリエンホーフ宮殿中庭
晩年、フリードリッヒ大王から招かれて訪れたサンスーシー宮殿
1747年に建てられた宮殿。バッハは1747年5月7日62歳の時、次男が仕えるサンスーシー宮殿(→衛星写真)のプロイセン王・フリードリッヒ2世(大王)(1712-1786)からの強い希望でこの宮殿を訪問。(2009.5.31)
サンスーシー宮殿翌8日、大王の前でオルガンやチェンバロの妙技を披露して居並ぶ人々を驚嘆させたという。このとき大王から主題をもらって即興演奏した曲を、約1ヵ月後に「音楽の捧げもの」として大王に献呈。(2009.5.31)
庭園から宮殿を望む階段状の段差部分に葡萄の花壇が組み込まれるという独特な造りの庭園もとても美しい。サンスーシー宮殿と庭園は世界遺産。(2009.5.31)
宮殿より庭園を望む入口には街の音楽師が観光客目当てに生演奏。われわれが日本人とわかると急に「荒城の月」を演奏して気を引いていた。(2009.5.31)
宮殿入口にて
ザクセン=アンハルト州クヴェトリンブルク
Quedlinburg
ベルリンからクヴェトリンブルクまで215km、3時間半の移動。写真は朝のアウトバーン。小さい写真は出発前、ベルリンのホテルにて。行く先々での、豊富な知識に基づく詳細かつユーモアに溢れた解説、軽快で言語明瞭な語り口、参加者一人ひとりへの温かい気遣いは脱帽もの。参加者全員が異口同音に絶賛するツアーディレクター氏でした。(2009.6.1)
ベルリンからクヴェトリンブルクへこの建物は、919年にドイツ初代の王、ハインリッヒ1世の居城として建てられたが、王の死後、936年に聖セルバティウス教会(女子修道院)となった(→衛星写真)。(2009.6.1)
聖セルバティウス教会教会のすぐ下のホテル・シュロスミューレ(Schloss Mühle)で昼食。このホテルの場所は、Googleマップの衛星写真を見ると、扇形に張り出した屋根ですぐに判る(→衛星写真)。(2009.6.1)
教会のすぐ下のホテルで昼食
坂道を登り切ると旧市街中心部に入る。 時代に取り残されたおかげで町は戦火にも遭わず、中世当時の状態が保たれた。(2009.6.1)
中世のままの旧市街に入る旧市街は、人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群として1994年、世界遺産に登録される(→衛星写真)。(2009.6.1)
聖霊祭でにぎわう旧市街町の広場では、聖霊祭を祝って中世の衣装を着た若者が音楽に合わせて踊りを披露していた。(2009.6.1)
中世の衣装によるダンステントでは美しい女性が7月と12月に行われる「エリザベス」というミュージカルをPRしていました。(2009.6.1)
旧市街の木組みの家
マルクト広場に面して建つ市庁舎(→衛星写真)。歴史を感じさせる重厚な庁舎である。(2009.6.1)
クヴェトリンブルク市庁舎青いショールを掛けている女性が我らがツアーディレクター氏。これだけ離れていてもガイディングレシーバーでちゃんと聞こえるのがとても楽。(2009.6.1)
市庁舎前の広場広場にはたくさんのテーブルが並び、オープンエアで太陽を楽しむドイツらしい光景。日照時間が短い季節がある欧州では、ちょっと天気が良いとすぐ半袖になるようです。(2009.6.1)
どこでも見かける外のテーブル市庁舎の反対側からマルクト広場を見る。このマルクト広場は長細い形をしているので市庁舎が遠く見える。(2009.6.1)
マルクト広場全景
市庁舎の脇からマルクト広場を見る。小さい写真の右の建物が市庁舎。(2009.6.1)
市庁舎の脇からクヴェトリンブルクからライプツィヒまで215km、2時間弱の移動。広々とした平地を通る国道をバスの後席から撮影。(2009.6.1)
クヴェトリンブルクを後にしてライプツィヒへ向かうアウトバーンからは、ポピーの群生がたびたび見かけられた。待望のライプツィヒはいよいよ近い。(2009.6.1)
ポピーの群生
ザクセン州ライプツィヒ
Leipzig
ライプツィヒは、最後の27年間(38歳〜65歳)をトーマスカントルとして過ごした町
この教会はライプツィヒのシンボル的存在(→衛星写真)。1212年に建造されたが、現在の建物は1355年にゴシック様式に建て替えたもの。その後、1537年に奥の祭壇部分に八角形の塔が追加され、現在の姿になった。バッハの音楽もまさにこの建物のような、建築美と構造美がある。(2009.6.1)
聖トーマス教会正面教会前のバッハ博物館に展示されている銅版画。左に描かれている建物が教会付属のトーマス学校(この建物は現在は無いようだ)。ケーテンにいたバッハは1723年5月13日、音楽教育と教会音楽に責任を持つトーマスカントルに着任した。絵はバッハが着任した頃の教会と思われる。(2009.6.1)
当時の聖トーマス教会正門右手の入口から入ると、力強い新ゴシック様式の教会を側面から見上げることができる。外壁が黒ずんでいるのは石に含む鉄分が錆びたためらしい。(2009.6.1)
新ゴシック様式の聖トーマス教会右側の入口が無料博物館、左側の入口がミュージアムショップ。隣の工事現場には毎年開催されるバッハ祭の予約受付中の広告が大きく掲げられている。(2009.6.1)
教会前のバッハ博物館
バッハはトーマスカントルになってからも、ドレスデンなど各地からオルガンの試奏に招かれ出かけている。そのたびにバッハは詳細な報告書を書き上げた。試奏を聴いた聴衆はその演奏技術に驚くばかりであったという。聖トーマス教会はライプツィヒ市内の教会音楽の供給源だったため、トーマスカントルになることはライプツィヒの教会音楽全体を監督することでもあった。(2009.6.1)
バッハ像がある広場ここでバッハが演奏するオルガンや合唱の響きを実際に聴けた人が羨ましい。小さい写真はバッハの墓がある奥の祭壇部。写真には写っていないが手前の床にバッハの墓がある。(2009.6.1)
教会内陣バッハ生誕250年にあたる2000年の6月に設置された新バッハ・オルガン。当時バッハは、時にはオルガンを弟子に弾かせて、自分はその横で指揮を執っていたこともあったと言われている(バッハ像はその時の様子ではないだろうか)。(2009.6.1)
新バッハ・オルガン
メンデルスゾーンがバッハ復興を願って1843年に寄贈したと言われているが、そのバッハ像は構内の別の場所にあるらしい。左はバッハ像の前でウハウハの私。(2009.6.1)
バッハ像パイプオルガンの前に立ち、丸めた楽譜を手に音楽を指揮している姿を表していると思われる。ベストの第2ボタンが外れているが、作者の意図は如何に。(2009.6.1)
楽譜を手に音楽を指揮する姿聖トーマス教会正面脇の広場に建つメンデルスゾーンの像。フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809-1847)は14歳の時、バッハの「マタイ受難曲」の楽譜を見てこの曲の偉大さに気付き、演奏することを決意したそうですが、1829年20歳の時、ついにバッハの死後初めてとなる「マタイ受難曲」の公演をベルリンで実現しました(メンデルスゾーンは早熟の天才と言われ、わずか16歳の時に有名な「八重奏曲変ロ長調」(私も好きな曲です)や「真夏の夜の夢」などを作曲しています)。このベルリン公演の成功がきっかけとなり、バッハは偉大な作曲家として見直されるようになりました。「マタイ受難曲」は、今ではバッハ全作品の最高峰とされているだけでなく、音楽史上においても最高傑作とされています。バッハ復興に多大な貢献をしたメンデルスゾーンは、音楽史にいつまでもその名をとどめることになるでしょう。バッハ自身は「マタイ受難曲」を1727年にここ聖トーマス教会で初演しています。(2009.6.1)
メンデルスゾーン像
チューリンゲン州ヴァイマル
Weimar
ヴァイマルは、23歳から9年間、宮廷楽士・宮廷オルガニストとして過ごした町
よく整備されたヴァイマルの駅前広場(→衛星写真)。小さい写真は駅前で見えた虹。2枚はいずれも前の晩、ホテルに着いた7時40分頃の写真。(2009.6.1)
DBヴァイマル(ワイマール)駅駅から町の中心部に向けて延びる並木道Carl-August-Allee。右の角に立つ建物が宿泊した、駅前のホテル カイザリン アウグスタ(Kaiserin Augusta)。(2009.6.2)
駅から延びる並木道1867年(明治元年)の創業時は左側の黄色い部分だけだったが、その後右側に建て増しされている。(2009.6.2)
ホテル カイザリン アウグスタマルクト広場(→衛星写真)に面して建つ市庁舎。歴史を感じさせる庁舎である。ゲーテは作家であるとともに実力が買われてヴァイマル公国の政務長官(首相)を長く務めた。(2009.6.2)
ヴァイマル市庁舎
1919年に世界一民主的と言われるワイマール憲法が採択されたことで知られる国民劇場の前に建つゲーテ(1749-1832)とシラー(1759-1805)の像(→衛星写真)。ゲーテが劇場監督を務めシラーの作品が多く上演された場所。
ゲーテとシラーの像
ゲーテが晩年の20年をすごした家(左、→衛星写真)と、シラーが学生の時に下宿した家(右、→衛星写真)。(2009.6.2) イルム河畔公園脇に建つ市の城(City Castle)。館内には国立美術館などがある(→衛星写真)。ゲーテの家、シラーの家、市の城は、世界遺産「古典主義の都ヴァイマル」の指定建築物となっている。(2009.6.2)
市の城バッハが1703年と1708年から1717年に住んでいたことを記念する胸像。場所は国民劇場付近。バッハは1703年4月8日、18歳の時にヴァイマル宮廷のヴァイオリン奏者に就職したがわずか4ヶ月でやめ、アルンシュタットに移っている。その後1708年、23歳の時に宮廷楽師兼宮廷オルガニストとして再び訪れ、ケーテンに移る1717年(32歳)までこの地で暮らす。(2009.6.2)
バッハの胸像犬を連れて散歩中の男性に道を訪ねている我らがツアーディレクター氏。優しい目をしたこの犬がなかなか可愛くて、しっぽを千切れるくらい振っていた。(2009.6.2)
ヴァイマルの街角で
チューリンゲン州アイゼナッハ
Eisenach
アイゼナッハは、バッハの生まれ故郷
今回の旅行で特に感動したのは、聖トーマス教会の入口に立った時と、この'Eisenach'の文字が見えた時でした。あと39Km、憧れのアイゼナッハまではあともう少し。(2009.6.2)
ヴァイマルからアイゼナッハへアウトバーンを降りてアイゼナッハ中央駅まできたところ。駅舎は写真の右手(→衛星写真)。(2009.6.2)
アイゼナッハ中央駅バッハハウスは目と鼻の先だ。案内板を見て、興奮は高まるばかり(→衛星写真)。(2009.6.2)
バッハハウスへの案内板いよいよバッハハウス前の広場に到着(→衛星写真)。バスに向こう側にバッハハウスとバッハ像が見えるではないか!(2009.6.2)
バッハハウス前の広場
バッハハウスは、町の音楽家であったバッハの父親が1674年に購入し家族で住んでいた家(→衛星写真)。(2009.6.2)
バッハハウス現在はバッハ博物館となっているこの家はバッハの生家ではなく、この近所で生まれたとされている。バッハが使用した楽器などが展示されている内部には入らなかった。(2009.6.2)
バッハハウスの前でバッハハウスの前にあるバッハの像。バッハ像の前で記念写真。(2009.6.2)
バッハ像
左がルターが学生時代の1498年から1501年まで住んでいた家で、現在は展示館になっている。木組みの建物が美しい(→衛星写真)。右奥にマルクト広場が見える。(2009.6.2)
ルターハウスからマルクト広場へマルクト広場(→衛星写真)に面して建つ聖ゲオルク教会。バッハは1685年3月21日に生まれ、23日にこの教会で洗礼を受ける。(2009.6.2)
聖ゲオルク教会マルクト広場に面して建つ小さな市庁舎。オペルの社旗が掛かっているが、アイゼナッハは自動車の町としても古く、現在はその工場があるので、市をあげて応援しているのだろう。左手がカール通り入口。(2009.6.2)
アイゼナッハ市庁舎市庁舎の左手から賑わいを見せるカール通りに入る(→衛星写真)。この先の左手にあるレストランAlt Eisenach(→衛星写真)で昼食をとる。食事を終えて出てきたらレストランの前でテレビ取材が行われていた。(2009.6.2)
カール通り
城までバスが行けないため徒歩で上がる。入口からはアイゼナッハの街全体が見渡せる。ヴァルトブルク城は世界遺産。(2009.6.2)
城の入口から市街地を望むアイゼナッハを象徴するヴァルトブルク城(→衛星写真)。11世紀築城。現在は世界文化遺産。伝説タンホイザーの舞台として、またマルティン・ルターが1522年に隠れ住んで新約聖書をラテン語からドイツ語に翻訳した(多くの人が読めるようにした)場所として有名。(2009.6.2)
ヴァルトブルク城城内からは美しいアイゼナッハの街が一望できる。(2009.6.2)
城内からアイゼナッハの街を一望
城の南端にある見張り台。上に登るには50セント必要。(2009.6.2)
南端の見張り台城の南端にある見張り台からは、チューリンゲンの森やアイゼナッハの美しい街並みが一望できる。左手は街の北西部。(2009.6.2)
見張り台から見たアイゼナッハの街中庭を見張り台から中庭を眺める。中央の高い塔は工事中のため見学できず。(2009.6.2)
城の中庭右手には街の南東部が望める。(2009.6.2)
右手は街の南東部
ヴァルトブルク城をもってすべての行程を終了。再度アイゼナッハへ戻り、アイゼナッハ中央駅(→衛星写真)の前を通って一路フランクフルト空港へ。(2009.6.2)
アイゼナッハ中央駅