父貞三のこと

父貞三のこと


父貞三の母

父貞三(1901-1984、旧姓木村)は福島県川俣町瓦町の広瀬川沿いにある「仙臺屋(仙台屋) 木村呉服店」(天保3年創業)の三代目木村徳兵衛の妹マチ(1870-?)の三男として生まれる。屋号の「仙臺屋」は、初代の木村徳兵衛が仙台(白石)出身であったためです(木村徳兵衛は四代目まで襲名)。

日本橋高島屋に奉公、そして独立へ

父貞三は、川俣尋常小学校を全学年1番で通して卒業し(本人の弁)、大正3年(1914年)、福島県屈指の公立進学校だった「旧制安積(あさか)中学校」に入学。しかし、家の事情で中退し、大正5年(1916年)ごろ、日本橋の高島屋呉服店に奉公入り。 高島屋では呉服部の外商として着実に実績を作り、多くの富裕層の顧客が付くようになりました。当時の呉服店の顧客は、店というよりも特定の店員に付くことが多かったのです。

大正時代の思い出として、大正12年(1923年)の関東大震災の時、父は高島屋の食堂で昼食を食べようしていた矢先だったらしく、箸を持ったまま避難したと、父から聞きました。 父が幸運だったのは、たまたま本所・深川方面とは反対の、山の手方面に避難したことで、難を逃れることができ、命拾いしたのだと話していました。

父は呉服を見る目が評価されて、大阪本店で始まった「高島屋上品会(じょうぼんかい)」(→ホームページの審査員として毎年参加していました。 上品会というのは、納入業者が腕を競う作品コンテストのようなもので、現在も続いています。 しかし、高島屋が株式会社化されると高学歴の人間が幅を利かせるようになり、人力車で送迎されるほど実力があった父でしたが“たたき上げ”だった父たちの立場は徐々に弱くなっていったようです。 そのため父は、昭和14年(1939年)ごろ高島屋から独立し、「染織繍岡村・きむら」(せんしょくしゅう、繍は刺繍のこと)として個人で仕事をするようになりました。

「御誂 染織繍岡村・きむら」と書かれた納品用たとう紙
着物納品用たとう紙

父が顧客に納品するときに使用した「御誂 染織繍岡村・きむら」と書かれたたとう紙

「御誂 染織繍岡村・きむら」
「御誂 染織繍岡村・きむら」

「御誂 染織繍岡村・きむら」のロゴ
電話番号は新宿の西落合に住んでいた時のもの。


青山高樹町で独立

父は二本松の岡村家と昭和5年(1930年)に養子縁組し、同年、母熊坂ハル(→母ハルについて)と結婚(昭和5年5月21日、父貞三・母ハルの婚礼写真)。 新居は大崎広小路で、ほどなく赤坂區青山高樹町に移り、昭和20年(1945年)6月(終戦わずか1ヶ月半前)に疎開するまで青山高樹町にいました。 そのため、私の兄4人とすぐ上の姉1人はみな青山で生まれていますが、私だけは川俣町で生まれました。青山高樹町の家には一時期、父の弟が居て、親友だった作曲家の古関裕而氏がよく遊びに来て皆と一緒に食事したりしたそうです(→古関裕而氏について)。

独立後も高島屋時代のお客様は離れず、さらに口コミでお客様も増えていき、名前を聞けばだれでも知っているような著名人の奥様方からの評判は絶大でした。 後年私が、高齢になった父をお得意様まで車で送った時に、その邸宅の大きさに驚いたものです(そういう時、私は中へは入れられず、門の外で待っていました)。 私は現在、父が晩年に造った古典模様の「平安の心」と題した着物を一点、形見に持っています。

晩年

父は仕事の関係で先に東京へ戻り、家族全員が東京に揃ったのは昭和31年(1956年)3月、私が小学2年生になる時でした。 父貞三の晩年の1年4か月は私のところで過ごし、昭和59年7月に他界しました。 現在我々兄弟は、昭和6年(1931年)生まれの長兄を筆頭に全員、東京および近郊にいて、平成22年の現在も、毎年兄弟旅行を楽しんでいます。

父の仕事は跡継ぎがいませんでしたが、私の三番目の兄、岡村正三は江戸小紋の染物に永くたずさわり、内閣総理大臣賞を受賞(二度)するなどしています。なお、この兄は東京都の伝統工芸士に登録(染色品/東京染小紋)されています(→日本の伝統工芸士)。

仙臺屋呉服店を訪問

2000年の春に三代目木村徳兵衛の曾孫に当たる現在の当主(六代目)木村重幸氏が「仙臺屋呉服店」のホームページを出されていることを知り、同年9月に訪問。 すでに1950年代初め頃のおぼろげな記憶となっていますが、その当時以来となる再会を果たしました。 重幸氏は趣味でジャズバンドを結成し(ベース担当)、活発に演奏活動されているそうです(蔵を使ったコンサートも毎年開催されているとのこと)。 ここに掲載した大正時代の店頭の写真3枚と1999年の新聞記事の写真データ、および小間物店のポスター現物は訪問の折にいただいたものです。 なお弟様は仙台市内で「ステッキ専門店ウォーキン」を営まれています。

「木村呉服店」大正元年頃の大売出し風景
「木村呉服店」大売出し風景

大正元年、天皇即位を祝っての大売出しで、「東京大活動写真」を上映したり、楽隊を雇って盛り上げているところが興味深い。「鬼足袋」とはどういう足袋か定かではないが、かなり力を入れて売っているようだ。

「木村呉服店」店頭の人力車
「木村呉服店」店頭の人力車

電柱がまだ無いところを見ると左の写真より古いと思われる。「場列陳店服呉村木」の屋根看板など、間口15間以上はありそうな店舗の大きさは、当時の川俣町の商店としては目を見張る規模である。右の一番蔵と左奥の二番蔵を見せていただいたが、特に2階建ての二番蔵の大きさには圧倒される。その広い空間を利用して、二番蔵1階の蔵座敷では毎年ジャズコンサートを開いているそうである。

「木村呉服店」奉祝の風景
「木村呉服店」奉祝の風景

店頭。撮影時期不明。左端に「木村呉服店」、その右側に「大日本帝国」ののぼりが見える。右端の二人は「木村呉服店」の名が入ったはっぴを着ている。

2011.3.11 15:33、東北地方太平洋沖地震で受けた被害
2011.3.11 15:33
東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)で受けた被害
(地震発生は2011.3.11 14:46)

重幸氏から送っていただいた被災写真。通りに面した一番蔵のなまこ壁と右の二番蔵(一番大きな蔵)の鬼瓦が崩落している。いずれも明治初期の建築だが、露出した地肌があまりに無残。しかし、構造的にはびくともしていないように見える。左上の「木村呉服店」大売り出し風景(白黒写真)には一番蔵の左側面のなまこ壁が写っているが、こちらのなまこ壁は大丈夫だったのだろうか。歴史的建築物なので、なんとか修復保存できることを祈りたい。

1999.11.29付の福島民報に<br>掲載された紹介記事
1999.11.29付の福島民報に
掲載された紹介記事

私は幼少の頃、毎日ようにこの道で遊んでいました。当時は手すりも無くそのまま川岸へ降りていくことができたものです。明治初期に建てられた7棟の蔵(一番蔵から七番蔵まで)の保存状態は極めて良好です。とくに母屋の横の二番蔵は太い梁をふんだんに使った城のような造りで、1階部分は何十畳もある蔵座敷になっています。

貞三の長兄の小間物店ポスター
父貞三の長兄(つまり私の伯父)が出した小間物店のポスター(昭和初め頃)
「絹の里川俣 商家のひなまつり」のポスター
2006.3.23-4.6、仙台屋呉服店の蔵座敷で開催される「絹の里川俣 商家のひなまつり」のポスター



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