作曲家・古関裕而氏のこと

作曲家・古関裕而氏のこと


古関裕而記念館館長 藤田修一氏(左)との記念写真 2012.4.23
古関裕而記念館館長
藤田修一氏(左)との記念写真

2012年4月23日、桜満開の福島旅行の途次、念願だった記念館への訪問が叶いました。また幸運にも館長にお会いすることができ、とても親切に古関裕而の話を伺うことができました。(2012.6)
私の父方の叔父(1909-1985)は、父と同じく川俣町瓦町の出身ですが、その叔父と作曲家の古関裕而氏(1909-1989)(古関裕而うた物語古関裕而記念館)は、瓦町にあった古関裕而氏の伯父が経営する川俣銀行の同僚で、親友の間柄でした。 そんなことから古関裕而氏は、昭和12年(1937年)頃、叔父が下宿していた東京・南青山(当時は赤坂区青山高樹町)の我が家へよく遊びに来ていて、一緒に食事をしたり時には一ヶ月ほど滞在したこともあったと母から聞きました。 川俣銀行時代(昭和3〜4年)、叔父が書いた詞に古関裕而氏が曲を付け、いろいろな所に応募していたそうです。 古関裕而氏は、叔父が昭和12年(1937年)に青山の我が家から支那事変(日中戦争)に出征する際、叔父のために「露営の歌」(下記♪参照)を上野駅で発表・演奏し、送り出してくれたのだと聞きました(叔父はその前の満州事変と後の大東亜戦争でも徴兵されています)。
後年、昭和30年代中頃に放送されたNHKテレビの「私の秘密」に古関裕而氏がゲスト出演した時、最後に登場する「それは私です」に叔父が出たのを、テレビで見たことをよく覚えています。 テレビがまだ白黒の時代でした。(2009.10.10)
親父のこと
お袋のこと

  露営の歌(→YouTube
作曲:1937/昭和12年、歌:中野忠晴 松平晃 伊藤久男 霧島昇 佐々木章
中野忠治は「小さな喫茶店」「山の人気者」「達者でな」「おーい、中村君」などの作曲者でもある
三番の歌詞「夢に出てきた父上に/死んで還れと励まされ」の下線部分で声を裏返して歌う美声の持ち主は5人の中の誰だろう
(参考)古関裕而氏の代表的作品
露営の歌(1937/昭和12年)
暁に祈る(1940/昭和15年)
若鷲の歌(1943/昭和18年)
スポーツショー行進曲(1949/昭和24年)
オリンピック・マーチ(1964/昭和39年)
今週の明星(1989/平成元年)
六甲おろし(1936/昭和11年)
昼のいこい(1972/昭和45年)
とんがり帽子(鐘の鳴る丘)(1947/昭和22年)
さくらんぼ大将(1951/昭和26年)
夢淡き東京(1947/昭和22年)
長崎の鐘(1949/昭和24年)
憧れの郵便馬車(1951/昭和26年)
高原列車は行く(1954/昭和29年)
 

古関裕而氏は、川俣銀行時代の昭和4年(1929年)、英国国際作曲コンクールにおいて管弦楽のための舞踊組曲『竹取物語』など5曲が第2位に入選しています。 この事実は古関裕而氏が若干20歳の時、すでに世界に通用する作曲家であったことを証明しています。 他にも交響曲、ピアノ協奏曲、弦楽四重奏曲など数多く作っていますが、残念なことに、日本で最初に国際的に認められたクラシック作曲家だったという事実はほとんど知られていません。 というよりも無視されている状態です。 これは日本のクラシック音楽の総本山である東京音楽学校出身ではなく、川俣商業高校出身で独学で学んだ言わば在野の作曲家であったことが原因ではないかと言われています。 日本人で最初に宇宙へ行った人が本職の宇宙飛行士ではなく、TBSのアナウンサーだったがために、その事実がほとんど無視されていることと似た構図です。 ついでに言えば、古関裕而氏の曲を歌った藤山一郎は国民栄誉賞を受賞しているのに、生涯に5000曲も作曲した古関裕而氏が受賞していないのも不思議です。

 

古関裕而研究で知られる藍川由美氏(後述)の『これでいいのか、にっぽんのうた』(文春新書)によれば、「世界」を見て作曲していた古関裕而氏は流行歌であっても、オーケストラの総譜からパート譜まで、完璧に記譜していたとのこと。 流行歌の場合、往々にしてアレンジャーが勝手に手を入れてしまうことがあるので、後の時代に正確に演奏されること(クラシック音楽の世界では当たり前のこと)を願ってのことではないかと推察しています。

 

古関裕而氏は作曲の際、楽器を使わなかったそうです。 実はJ.S.バッハも弟子には楽器を使わずに作曲することを厳しく求めたと言われていますが(→バッハ傾聴)、これは曲作りを見失って、耳触りのよい音作りに陥ることがないよう戒めたものです。 おそらく古関裕而氏の場合も同じ理由ではなかったかと想像できます。

 

昭和39年(1964年)10月1日、前日までの雨模様がうそのように晴れ上がった東京オリンピック開会式当日、テレビ中継で古関裕而氏のオリンピック・マーチが国立競技場に鳴り響いた時、素晴らしい曲だなあと感動したことを鮮烈に記憶しています。(2009.10.10)


●古関裕而氏を取り上げている「Electronic Journal」の記事
  ・戦時歌謡はどのようにして作られたか(2002/3/27, EJ828号)
  ・応援歌づくりの名人/古関裕而(2002/3/28, EJ829号)
  ・情感あふれる古関裕而の軍歌(2002/3/29, EJ830号)
  ・日本の歌の両端に古関と古賀がいる(2002/4/1, EJ831号)
  (関連記事)
  ・軍歌は日本精神史の結晶である(2002/3/22, EJ825号)
  ・軍歌が生み出された背景を探る(2002/3/25, EJ826号)
  ・世界に通用しない特得な日本の歌(2002/3/26, EJ827号)
 

執筆者の平野浩氏は、何とかつて私が開発したパソコン用ビジネスソフト「ぱぴるす」「ファラオ」「ナイル」の解説本を書いていただいた方でした。もちろんその当時、お会いしています。

 

私が戦時歌謡を好きな理由には2つあります。1つは純粋に音楽として観賞できること。もう1つは、出征して行った若者の純情な気持ちが胸に伝わって来て感動することです。「若鷲の歌」の「見事轟沈した敵艦を、母へ写真で送りたい」の一節は胸に深く迫ります。当時、出生した兵士や国民が歌ったこれらの曲は、軍部に無理やり歌わされたのではなく、自分たちの心に響くものがあったからこそ、好んで歌われたものと思います。こういう歌は林秀彦氏が言う通り日本にしかないような気がします。(2009.10.10)


●『日本人と軍歌』の中で取り上げられている声楽家で学術博士の藍川由美について
 

声楽家で学術博士の藍川由美氏(1956-)(藍川由美HP)が著した『これでいいのか、にっぽんのうた』(1998年、文春新書)を読んだので、以下に紹介します。
内容は、タイトルから想像するよりもずっと専門的ですが、藍川氏の問題意識には大いに共感するものがあります。あとがき冒頭にこの本を著した主旨が書かれているのでその部分をそのまま引用します。

かねてより、私は、文部省唱歌などにおける改作や、歌詞の削除などに疑問を投げかけてきた。もし、一枚の絵画を部分的に切り取ったり、絵の上に他の色を塗ったとしたら、いったいどんなことになるだろう。文部省は、「日本のうた」において、こうした暴挙を平然と行ってきたのである。はたして、他者の手によって改作された作品から、作者自身の息づかいや、創作された当時の雰囲気を感じ取ることができるだろうか。その意味において、いかなる芸術作品であれ、オリジナルを尊重することに異議を唱える人は居まい。私が、改作と誤植によって原形を失った「日本のうた」の校訂を行っているのはそのためである。そうした過程で出合ったさまざまな疑問や矛盾をこの本にまとめてみた。

藍川氏が指摘しているこの問題は、私も以前からうすうすと感じていましたが、その実態がこの本を読んで良く理解できました。たとえば「春の小川」では、「春の小川はさらさらいくよ」と習ったが、本当は「春の小川はさらさら流る」だったこと、また作者が一番言いたかった肝心な部分が三番であるのに、その三番がそっくり削除されてしまったなどです。この本はすでに廃刊になっていますが、資料的価値まで考えると、このような良書はいつでも手に入るよう、出版社は自らの使命と考えてぜひとも廃刊にしないよう願わずにいられません。

 

藍川氏は、声楽家としての立場からも、歌唱のための日本語の発音について研究されています。 そんな藍川氏がそれらの研究成果を反映し、自ら歌う唱歌とは一体どのようなものなのか。さっそくCDとして出ている『文部省唱歌集 故郷 藍川由美』を買って聴いてみると、一聴してこれまでに聴いたものとは違うと感じました。透明な声、正しい発音、豊かな響きのピアノ伴奏による演奏に感動しました。私の好きなドイツリートに一歩も引けをとらない素晴らしい歌曲芸術に仕上がっていました。校正された歌詞とメロディーを聴き、これが本来の正しい日本の唱歌だったのかと、すっきりした気分になりました。このCDは演奏が素晴らしいだけでなく、付属する解説書では改作された部分が丁寧に説明されているため、資料的価値も高いものとなっています。これら歌曲は、1994年、「天皇陛下御還暦奉祝会」で御前演奏されたそうです。 合わせて、CD、『古関裕而歌曲集 藍川由美』も手に入れました。

  
●最後に
 

私も小学校の音楽教育に、本来の姿に戻した唱歌を復活することを願っています。詩人が精魂込めて書き上げた詩を、美しい日本語の響きとしてそのまま声に出して歌えば良いのです。歌詞が文語体で難しかろうと構わないのです。意味は大人になってから理解できれば良いのです。私は娘が幼少の頃、古い歌集を寝床に持ち込んでは、添い寝しながら唱歌や戦時歌謡をよく歌って聴かせていました。(2009.11.17)


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